18.6.05

日本人と平面デザイン

ひょっとすると、すごく有名な話なのかもしれないけれど、神林長平の「魂の駆動体」というSFを読んで、なるほどなぁと思ってしまった。

魂の駆動体神林 長平


実はこの本、図書館でなんとなく手に取って読んでみたもので、しかもハードカバーなもんで文庫本にある「裏表紙のあらすじ」みたいなものもなく、まったくもってどんな話なのかわからずに読んだ。最初、少々読むスピードが遅かったけれど、途中からけっこうはまって一気に本日読了。


話は「過去」「未来」「現在」と大きく3つのパートに別れている。
「過去」は、人々が「HIシステム」という意識を身体から切り離して保存することができるようなった時代。その時代では、「クルマ」は完全な「自動車」となっており、運転をする必要はなく、ただの移動手段のひとつとなっている。そんな時代、二人の老人が自分たちの「クルマ」を設計するという物語が展開される。(「過去」だけど、それはあくまで物語上の「過去」ということ)
「未来」は、すでに人間は滅んでしまい、「翼人」という種族が繁栄している時代。翼人のひとりが人間の研究のため、人間に変わる。そして、翼人が作り出した人間と生活をともにするという物語。ここで「過去」とのつながりが出てくるのだけれど、そこを書いてしまうと、この話の面白みがなくなると思うので、中途半端な説明だけれど、物語の概要はここまで。
ちなみに「過去」のパートで「クルマ」の設計をする際、非常に専門的な話がたくさん出てくる。私はあまりくわしくないので、正直、よくわからなかったけれど、クルマ好きな人にはかなり楽しめる(というか、うんうんって感じになるのではないだろうか。
さて、冒頭の話は「過去」のパートの中でクルマのデザインを考える際に、自称画家の老人がクルマのデザインを見たときに話される内容となっている。
以下のセリフは「専門家のものではなく、素人一般のデザイン感覚として」との前置きの後、出てくるものです。

「日本人のデザイン間隔というのは、平面上で発揮される、二次元を主体としたもので、三次元や立体で考える伝統はごく最近のことなのだと思いますね。たとえば、そう、キモノのことを考えてごらんなさい」
・・・
「キモノの裁ち方は平面的です。だから平らに畳むことができます。ところが、洋服というのは、人体という立体に合わせて立体裁断して作られるものです。洋服は最初から立体としてデザインされているというわけです」
・・・
「庭にしても、そうでしょう。日本庭園というのは、『ここから見るのが最高』という、ポイントがあるものですが、それは、額縁を通して鑑賞する、という鑑賞の仕方でしょう。額縁上にあるのは平面です」
・・・
「(前略)日本庭園は雄大な自然をいったん理想化して解釈して作られる。それをまた、額縁を通して鑑賞するという抽象化が行われるわけで、理屈ではなく、感覚的にとらえるのです。(後略)」

というような会話の後、他の抽象化の例として「家紋」の話が続き、最後は車のデザインの話となる。

「ですから、こう言えるでしょう。平面図ですばらしいクルマをデザインすることはできる、と。あるいは、ある角度から見たときに最高にすばらしく、他の角度からのスタイルは見る側も無視すべきだ、というクルマのデザインは得意かもしれない、ということです」
「どこから見てもかっこいいといえば」と私、「イタリア車だな。フェラーリ。ピニンファリーナのデザイン。日本車にはそういうのは少ない。その原因が、そうだったのか」
「いいえ、それは専門家であるデザイナーの力量に関わる問題で、デザイナーの人種には関係ないでしょう。いまは素人のデザイン感覚の話をしているわけですから。ですが、素人が見たときの感想というのは、人種により異なると言えるでしょうね。一般的な日本人がかっこいいと感じるデザインというのはあるでしょうから、それようにデザインされたクルマが外国では評価されないとしても、それはデザイナーの力量が低いとは言えないわけです」

なんだか、デザインの本でも読んでいるように「なるほど…」と、作中の「私」のように、私も感心してしまった。
確かにクルマに限らず、ちょっとした家電とか文房具なんかでも、西洋のデザインの方が「なんかいい…」と思えるものが多いような気がする。
こういう、物語の本筋とは直接関係ないんだけど、「なるほど…」みたいなネタに出会うと、読んで得したような気になってしまう私なのでした。


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